神田伯山 会社員のお父さん(父親)の死因を知り、深く傷ついた過去があった

今は100年ぶりとも言われる講談ブームの立役者であり、また講談界の風雲児とも称される神田伯山さん(本名「古舘克彦」)。人気のあまりチケットが取れない講談師としても有名です。

そんな神田伯山さんですが、実は子供の頃にお父さんを亡くしています。会社員だった父親の死因に大変ショックを受け、その後のすべてを変えたというほど衝撃的で深く傷ついたそうですが、一体どんな過去があったのでしょうか。

貿易会社に勤務していた神田伯山のお父さん

神田伯山の父親は古舘豊さんという方です。豊さんは中学では柔道で地域の大会で優勝するほどの猛者だったんだとか。(ちなみに神田伯山の高祖父の福岡庄太郎さんは前田光世さんと共に南米で柔術を広めていたこともあり「パラグアイの英雄」と称される人物)きっと柔道・柔術の達人の家系だったんでしょうね。

豊さんは高校を卒業後を立教大学へ進学。大学卒業後の昭和51年に貿易会社に就職しました。ちなみに2歳年上の妻のミエ子さんとはこの貿易会社で出会ったそうです。そして二人は昭和54年に結婚しました。

幸せな新婚生活も束の間、昭和58年に豊さんはブラジル南部ペロタスにある支社に転勤になります。当時、妻のミエ子さんは次男の神田伯山さんを妊娠中だったため、最初は豊さんの単身赴任だったそうす。

ちなみに豊さんはブラジル赴任中に仕事の傍ら柔道を教えていたらしく、教え子の中には国を代表する選手もいたそうです。今でも教え子の中には豊さんの教え「少し練習しただけでは結果は出ない、献身、忍耐、鍛錬、反復こそが大事だ。」という言葉が残っているといいます。

そして神田伯山さんが誕生。1歳の時に一度家族全員でブラジルに渡り暮らしてたそうですが、その後昭和61年に日本に帰国。東京の池袋周辺で暮らしていたそうです。その当時の父親の仕事について、神田伯山さんは次のように話しています。

「おやじは貿易の仕事をしてたみたいですね。僕のおやじのイメージは会社員で、課長、課長ってやたらと言われていたという。電話で『黄金のバナナが出来る』って話しているのを横で聴いていた記憶があります。当時有機栽培のバナナってなかったらしいんですけど、それを他社に先駆けて作ろうとしていた、という話だったみたいです。おやじの記憶は九歳までしかない。ときどきキャッチボールをしてくれる課長、ですね」

そんな、貿易会社の会社員だった父・豊さんですが…神田伯山さんが9歳の時に亡くなってしまいます。

父親との急な別れ、衝撃的な死因が神田伯山の人生を変えた

神田伯山さんが9歳の時、お父さんは急になくなりました。死因は…自ら命を絶ったことだったそうです。当時のことを神田伯山さんはこう振り返ります。

「おやじが突然いなくなって、母親がずっとおろおろしてたんですよ。こんなことは今までなかった、何かあったに違いないって。それから二日後に、図工でサルの人形を作ったんです。僕はすごい不器用なんですけど、親ザルと子ザルが抱き合って、ゆっさゆっさするみたいな。すごい出来がよかったから、これを見せれば母親はおやじが帰ってこなくても喜ぶに違いないって、子供だから思いました。で、その日帰ったら、母親が今までに見たことないような顔をしているんですよ。ちょっと話あるからって連れていかれたら、じいちゃんもばあちゃんも、兄貴もいた。そのときの光景も覚えてます。警察から連絡があって、お父さんが死んだ、と言われたときの、とりあえず実感はないんだけど、父親がいなくなったことだけはわかったというあの空気も」

神田伯山さんはお父さんの遺書を見たと言います。当時、神田伯山さんは小学4年生。まだ幼かった神田伯山さんにとっては大変衝撃的な出来事でした。

父の死をきかっけに、それまで明るくて快活な子供だった神田伯山さんの性格は一変します。絶望感に襲われ、子供ながらに人の死について考えるようになったそうです。また友達と話していても、ふと亡くなった父親のことを思い出して「父親は死んでいるのに笑っていていいのかなと。」と考えるようになり、笑う事に罪悪感を覚える人間になっていったと言います。

中学、高校とこの傷を引きずったまま生活を送っていた神田伯山さん。そんな中で、立川談志さんとの出会いがあり、講談師への道を歩むことになったそうです。

以上、神田伯山さんのお父さんのエピソードになります。貿易会社の会社員だった父親がある日突然亡くなるなんて、想像もできなほどショックな出来事だったでしょうね。その悲しみを乗り越え、うまく付き合いながら人気講談師として上り詰めていた神田伯山さん。今後もその活躍に注目していきたいと思います。